私の
前代未聞の試みが
これ
「悟り(覚り)を説く」
ということ
けっして
宗教的盲信にとどまらない
実践的な
おはなしを
してみようと想う
まず
「万物は一体」ということ
これを
体感をもって知ること
わたし=あなた=せかい
せかい=あなた=わたし
という理解
何故か?
「万物(この世の有と無を含む一切合切)は
空(あるともないともいえる)だから」
凡てが空(あるともないともいえる)
ならば
わたしとあなたに区別はない
万物を隔てる境界というものがあるともいえるしないともいえる、空ですよ
さらに「わたし」という認識が今ここから宇宙空間全体、さらには時空を超えて
この世の果てまで
無限に広がっていくんですよ
という思想
これが私の「空」の認識です
わたしなりに「色即是空、お釈迦様の考えた哲学について」考えた結果です
難しいけど
わたしたちが
今この瞬間瞬間に本当に生きるなら
すべてのことは「幻」だと
理解できるはずです
映画を観ていることに例えるなら
スクリーンに映っているのは光の粒子の集まりです
それを「人だ」とか「携帯電話だ」とか、「カフェでお茶を飲んでる」とか認識する
認識すること自体が既に「空」です
なぜならそれらは実際に存在しているものではないからです
「誰かと待ち合わせしていて、その打ち合わせをしている」
ストーリーも第三者によって認識される、「仮」のものであり「空」です、
なぜならそれはストーリーを認識したひとの心にしか存在しないからです
瞬間瞬間においては人やモノだと認識される粒子が
無限にうごめき変化するようなもの、その変化があるだけだ、と認識されるからです
よって諸行無常、「この世に永遠不変なるものは何一つない」ということになります
みんな変化の潮流にいるのです
「仮」のものに重きを置いて認識することを「仮観」、
すべてを「空」と認識することを「空観」と呼びます
本当にこの「空」という考えを理解するに至れば
この世にあらゆる一切の苦しみから人は解放されます
なぜなら「全てが幻」だからです
たとえば「お金がほしくてほしくて嘆いている人」を
思い浮かべるとして
彼(彼女)の思い浮かべる「自分がお金持ちになった状態」は
脳内で思い浮かべる自分の理想的なイメージであり、幻です
そして「現在お金がなくて嘆いている状態」もまた
こころによって生み出された誤った自我の認識であり、幻です
幻と幻を比較して幻を生み出している(不幸な自我)にすぎないのです
世の中には正しいことをしようとして人を殺したり
間違ったことを説いて世の中を変えようとしたり
いろんな人がいますが
実際には「すべてが空」なのだから万物を図る絶対的な尺度は存在せず
「正しい」とされることが「間違っている」のかもしれないし
「間違っている」と一般的に言われるようなことが「正しい」のかもしれません
社会や政治の在り方でいえばそれは大いに当てはまると思います
もちろん、人を殺すことは絶対にやってはいけないことであり、悪だと思いますが
神様がわたしに命じたのだ、と考える人は自分は正しいと思い、実行するのかもしれません
だからこそ、「空」(あるともないともいえる)だからこそ、
わたしたちはあらゆる角度から、視点から物事を考え
自分を差し置いて俯瞰的に観なければなりません(止観)←筆者には耳の痛い話ですが、精進します
それがお釈迦様の言っていることだと思います
人によって正しいものは違うからです
最後に、
僕が言いたかったのは
瞑想を通じて、
ひとは正しくものが視えるようになり、要らないもの(雑念、囚われ、妄執など悪い心の習慣)など捨て
幸せに(happy)に生きられるようになるんだよ、
ということ
そしてこの世に絶対的な真理は存在しないから(それは唯一絶対の神の教えでさえも) いつも自分を吟味して何かにすがったりすることなく 思考しながら生きていかなければいけないんだよ、という自分に対してもメッセージを送りたかったということ
とても長い文章になった
注:この文章は作者の思考の産物であり
本当に正しいことを証明するものではありません
特定の宗教を批判したり、
肯定するものでもありません